●散歩道のケヤキと青渭神社の老大木ケヤキ
仙川河畔のウォーキングコースから拙宅に戻るには、いろいろな道があり、その日の気分で通る道は変わります。今朝は親しくしている農家の横を通りました。右の写真はその農家のブロック塀ですが、元はきっと生垣だったのでしょう。これをブロックに替えようとしたら、木の根と幹がじゃましてこんな形になってしまったのですね。
この大木はケヤキです。もともと武蔵野では防風林としてケヤキを植えることが多かったせいもあり、三鷹地区でもケヤキはもっとも多い樹木の1つです。東京では街路樹として植えられることも多く、私が利用する京王線つつじヶ丘駅付近の甲州街道も立派なケヤキ並木になっています。
若く健康なケヤキはまっすぐに伸び、独特の美しい木肌をしていますが、何百年と生きている、老巨大ケヤキともなると、幹は複雑に変形して伸び、まさに“神宿る”とでもいいたくなるような神秘性を帯びてきます。
左の写真は、拙宅から徒歩10数分、「ゲゲゲの女房」で今や全国的に有名になった、深大寺にある青渭(あおい)神社の鳥居横のケヤキです。樹齢およそ数百年、幹周り5.5メートル、樹高34メートルという見事な体躯ですが、その幹の複雑な形状、荒れた肌はもはや街路樹のケヤキとはとても同じ種のものとは思えません。枝が交通量の多い道路を越えて大きく伸び、垂れ下がるので、調布市は先年、保護のため枝の一部を伐り、保護柵をつけるなどの対策をしました。なお、この青渭神社のケヤキは、1972年4月に調布市の天然記念物に指定されました。
それにしても、長寿の大木を見ると、人生と老いについて考えざるを得ません。樹木は何も語りませんが、膨大な年月の風雪に耐え、黙々と己の命のある限りを生きています。人もまた、与えられた命をまっとうすべく生き続けていかなければなりませんが、樹木のようにただ黙しているだけでは、なかなかうまくいきません。誰もが人生の終盤を明るく楽しく送ることができるようにするには、世の中をもう少し“健全”にしなければなりません。財源を増税で確保することも必要かもしれませんが、その前にしなければならないことが、たくさんあるのではないか、そんな気がします。
●キケロを紹介する荻野アンナさん、そして小沢昭一さんは
荻野アンナさんといえば、私にとっては『ラブレー出帆』(岩波書店刊)の著者。そして、昨年後半に日本経済新聞夕刊に連載されていたコラムの筆者。私は荻野さんの特別なファンではなく、その作品も『ラブレー出帆』以外には拝読していないのですが、雑誌やテレビを通じて、かなりの量の情報を得ているので、つい身近な人と勝手に感じ、その人柄にも非常に好感を寄せていました。今年は読売新聞夕刊の毎週火曜日掲載コラム「いま風」も愛読しています。
ところで、今日は久しぶりに“ちょっといい話”です。まずは、2009年11月9日の日経夕刊コラム「老いは恐れるに足らず」をご紹介しなければなりません。荻野さんは「元気の出る本をみつけた」と書き出します。それは何かといえば、あの帝政ローマ期の政治家にして思想家のキケロ(Marcus Tullius Cicero 紀元前106 – 紀元前43)の『老年について』でした。これは現在岩波文庫に中務哲郎訳で入っています。私は河出書房新社の「世界大思想全集」の1冊、呉茂一、重田綾子訳『キケロ/ルクレチウス』(1959年刊)をもっています。読み始めてあまり面白くなかったのですぐに書棚に押し込んだのですが、荻野さんにいわれて読み直しました。やはりあまり面白くない!! しかし、荻野さんは面白いところに目をつけました。
キケロは老いは恐れるに足らないというのですが、そもそも老年をイメージさせるものとしてキケロは、「公的活動が出来なくなる」「肉体が弱る」「快楽が味わえなくなる」の3つをあげます。最初の2つは今日は省略して、問題は3番目であります。
キケロの「快楽」という言葉は、主に“異性との快楽”を指しているのですが、彼は「欲望にふりまわされ、無駄なエネルギーを使っていたのが、老いて解放されるとしたら、むしろ喜ぶべきだ。有益な趣味や楽しみはいくらでもあるのだから」というのです。これは大いに参考になりますねえ、みなさん!
また、死について当時のローマには2つの見解があり、ひとつは「死は肉体と魂の消滅」、もう一つは「魂は永遠である」でした。これに対するキケロの考えは、もしはじめの消滅なら、“あっさり消えるだけ”、もし2番目の永遠なら、魂は今よりマシなところに行けるのだから“待ち望みさえすべきだ”と荻野さんは要約します。
そして、最後に荻野さんはこう書いています。
― 著者のキケロは執筆のころ60歳を過ぎていた。長年連れ添った妻と離婚し、新しい妻ともすぐに別れた。刺客におびえていたが、やがて暗殺される。言動の不一致? むしろ理想の老年を送れなかった人の白鳥の歌を思いたい。後世の私たちが頑張りますからね、とあの世のキケロに拍手を送りたい。―
死についてはしばらくおくとして、快楽の部分ですが、ここを読んだ数日後、私は大好きな小沢昭一さんの『川柳うきよ大学』(新潮新書)読んでいて偶然、次の一節に出会いました。
― つらつら己のものを眺めるに、小さくおとなしく、わが幼少時代を思い出して懐かしく、とてもじゃないが“生涯現役”などという境地にはなれませんが、ナゲキません。人生はよくしたもの。もうミニスカート見たって、バカだなぁフン!ですよ。ご婦人に気が散らないだけでもメッケモン。オスの時間を捨てた分、時間が余りますな。さ、その残り時間をのんびりいこう。―
まさに、老いと快楽に対する小沢流哲学で、キケロ先生を超えようかという澄み切った境地ですねえ。私も小沢さんに早く近づきたいと思って日夜精進しております。

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