青山静代と2人で学校を出た。正面玄関のすぐ前は大通り公園だ。公園の中を歩いて右に進むとすぐに高等裁判所がある。立派な石造りの外国風建物で、まだ1度も中に入ったことはないが、子供心にも厳かな感じがした。
「うちのクラスの臼井君のお父さんが、ここに勤めているのよね。判事さんだって。判事って偉い人なんでしょ?」
「そうだろうね。うちの両親もそういってた。臼井のお父さんは1度も見たこと無いけど、
お母さんには何回か会ってるよ」
「あら、そう。私も臼井君のお母さん知ってる」
「臼井の家ってうちのすぐ近くでしょ、それで何度か遊びに行ったこともある」
「お母さんって素敵な方よね」
「出かけるときに、いつも帽子を被ってるよね。おでこから目のところまで、なんか透けた布がぶら下がってる変な帽子」
「そうそう。あれレースっていうのよね。私も大人になったらあんな帽子被りたい」
「へー、どうして?」
「だってああいう帽子被ると何か高貴な感じがするじゃない、皇室の人か外国の女優さんみたいで素敵じゃない?」
「僕、男だからよくわかんない。でも静代ちゃんなら似合うかもしれないね」
「へー、浩さんってお世辞もいえるんだね」
「お世辞なんかじゃないよ。だってみんないってるじゃない、静代ちゃんて学校1番の美人だって」
「いやね、何いってるの。わたし自分のこときれいだなんて一1度も思ったことないもん。浩さんは私のことどう思う?」
「僕ね、女の人のことよくわからない。今までにいちばん好きだったのは、1年生のとき入院した病院の看護婦さん」
「ふーん、その看護婦さんてどんな人だったの?」
「あのね、他の看護婦さんに嫌われてた。でも僕にはいつも親切だったの。それでね、口紅が赤くなかったんだ」
「赤くない口紅?」
「そう、なんかね、紫色みたいな、藤色みたいな色の口紅」
「へー、珍しいわね」
「そう。それでうちのお母さんもいってたけど、そういう色の口紅つける人は普通じゃないんだって」
「あら、普通じゃないってどういう意味?」
「よくわかんないんだけど、ご飯運んでるおばさんにきいたら、小さな声で、ああいう色の口紅をつける女の人は男にだらしがない、っていってた」
「うーん、男にだらしないってどういう意味なんだろうね」
「僕もわかんないよ。でも、その看護婦さん僕にはとっても親切なんだ。毎朝、おはよう坊や。どこも痛くない? って優しい声で聞いてくれるの。僕は盲腸の手遅れで長く入院してたでしょ、注射なんか毎日何本も打たれてたから、腕に針の跡が残って赤くなってるじゃない。そこをね、柔らかい手でそっと撫ででくれるの。それでじっと目を見て、坊や頑張るのよって、励ましてくれた」
「そう、いい看護婦さんね。ねえ、浩さん。今度うちに遊びにこない? 私のクラスの安田さん知ってるでしょ。南ちゃん。彼女2学期から東京に行っちゃうんですって。だから2人でお別れ会するの。2人だけじゃ寂しいから浩さんを誘おうって彼女と話したの。女の子2人でイヤだったら、誰かお友達を連れてきてもいいよ」
「うん、わかった。必ず行くよ」
「それから、浩さん。これから毎日一緒に帰りましょうか。私、浩さんと話したいこと一杯あるの」
「うん、いいよ」
「本当? じゃ約束ね。浩さんはここから曲がるんでしょう?」
「うん。でも、もう少し行ってから戻ってもいいんだ。どうせ急いでないし」
「あら、嬉しい。じゃもう少し話せるわね。明日は水曜日だから、浩さん昼の放送の当番よね」
「あっ、そうだ。すっかり忘れてた」
「あれっ、そんな大事なこと忘れてたの?」
「今日はいろんなことがあったもんだから」
「そうなの。いいこと何かあった?」
「ない、ない。悪いことばっかり」
「でも、一緒に帰れたから1つはいいことあったよね」
「うん、そうだね。じゃ僕ここから帰る」
「また、明日ね」
静代の家の近くまで行って帰ると、いつもは通らないパン屋の裏側の道に出る。表の電車通りに面した側がお店で、裏道に面した側が工場になっている。時々ここを通ると、いい匂いがした。窓が開いているときに中を覗いて見たら、大きな鍋のような釜があって、上から太い棒が突き刺さっている。釜の中にはクリーム色のパン生地が、柔らかくなった粘土のようにドローンとして入っていて、近くに立っている職人さんが壁に手を延ばして赤い小さなボタンに触ると、グィーンという唸り声をあげて棒が動き出す。パン生地をこねるのだ。擦鉢と擦こぎの関係を自動化したんだな、と俺は思った。棒が動き出すと、甘い匂いが窓の外まで強く漂ってくる。俺は深呼吸をして胸いっぱいにその匂いを吸い込む。うっとりと目を閉じたくなるような幸せな気分になる。しかし、4回以上吸い込むと、逆に気持ちが悪くなるので、深呼吸はいつも3回までと決めていた。
(注) 学校の正面玄関の前はすぐに大通り公園。1年に1度、図工の時間はここで写生をした。後方に見える石造りの建物は大通公園西端の札幌高等裁判所。浩と静代は、この公園を南に渡って、写真の左奥の方に進む道を一緒に帰った。


毎朝、朝食のかたずけが終わり、やれやれ世間の喧噪はいかがかと朝刊に目を通します。
そのあとすぐにパソコンの電源を入れ楽しみにしているこの項を開きます・・・・これが最近の日課です。
幼年時代等楽しい話、動物とのふれあい、一般的な話題、歴史の紐どき等々実に多岐にわたり楽しく愛読をさせていただいています。
文章のすばらしさ説得力、恥ずかしい事ですがこの年になり初めて教えていただいた感じです。 ※これからも小沢昭一さんの本の如く少しでも頭をつかい日々を過ごせたらとおもっています。