「でもね、英樹君、人は食べ物だけでは生きられない。人間という字が人と間という字で出来ているのも、人は人との関わりの中でしか生きられない動物だと、ずっと昔から思われている証拠だろうね。だから、男女の愛も、家族の愛、友人の愛、師弟の愛も、それぞれなくてはならないものなんだ」
「でもさ、人間の関係を難しくしたり、壊したりするのも、その愛とかいうやつじゃないの? たとえば、俺のオヤジが母さん以外の女を愛したら、母さんはどうなる?」
「いや、ほんとにそこが問題なんだ。愛が無ければ人は生きられないが、愛ゆえに人間関係が難しくなることも事実だ」
「そんな面倒くさいもんなら、初めから関わらない方がいいじゃないか」
「浩君はどう思う?」
「僕はまだ愛なんて深く考えたことないです。でも最近、母が好きなのと、他の女の人が好きなのは違うことなんだって、少しわかってきました」
「それって静代ちゃんのこと?」
「うん、そうだよ。僕は今までは男も女も区別なく、好きな人とは仲良くしてきたけど、静代ちゃんは他の仲良しの女の人とは違う特別な人、そう気がついたんだ」
「へえ、浩君ってまだ乳離れしてないんじゃないかと思ってたけど…」
「でもな、俺は浩が青山と仲良くなることに反対はしないけど、周りが黙ってないから心配なんだ。クラスの吉田や曽根は面白くない。きっとあれこれ面倒なことが起こるんだ」
「俺はそんなこと全然気にしない」
「お前はわかってないんだよ。でもな、俺はこの間の道庁以来、浩と青山のことは認めることにした。誰かが変なこといったり、したりしたら俺が許さない、浩を守るって決めたんだ」
「ほー、英樹君はどうしてそういう気になったのかな?」
「そりゃ、俺は今まで生きてきて、浩はほんとに差別のないヤツだってわかっているから。勉強の出来る出来ない、金持ち貧乏人、健常者身障者、そういう差別が浩にはまったくない。俺に同情してくれる人はたくさんいるけど、浩は同情もしないし遠慮もしない。浩は考えてそうしてるんじゃなくて、恐らく無意識にそうしてる。こういう人間に俺は初めて出会った。そういう浩が本当に好きなら俺も認めるし、何かあったら守る。俺には浩が大事なんだ」
「うん、その気持ちはわかるけど、そのことと、静代ちゃんと浩君のことは別なんじゃないかな?」
「そんなことないさ。俺が信じた浩が好きになった人なんだから、きっと青山もいいヤツなんだ。その2人が困ったことにならないように、俺はできるだけのことをしたいって思ってるんだから」
「ふーん。そういうのなんか変だな」
「英樹君が浩君に感じているのは、最初は自分を理解してくれることへの感謝の気持ちだったかもしれないが、それが今は友情に昇華しているわけだ」
「ジュゴンの話は、結晶とか昇華とか難しいな、俺にはよくわかんないよ」
「そうか、ごめん。私は君たちを子ども扱いしたくない、対等に付き合いたいと思ってるんで、つい自分の言葉を使ってしまった」
「私は正確には分かってないのかもしれないけど、ジュゴンの言葉、深い意味が含まれている感じがして好きだな」
「静代ちゃんは本をたくさん読むからね。英樹君も少し見習ったら」
「俺は自分が経験したことしか信じないよ」
「でも、自分で経験出来ることって限りがあるじゃないの。だから本を読んだり、人の話を聞く必要があるんじゃないの?」
「本を読むのはイヤだけど、まあ、ジュゴンの話なら聞いてもいい」
「そりゃありがとう。今日は英樹君が初めて円山の頂上に立った記念の日だから、何か楽しい話をしたいんだけれど。本を読むということはね、それを書いた人の経験を共にするってことだと思う。だから私は出来るだけたくさんの本を読みたいと思ってる。でもね、あまり本ばかり読んでると、かえって世の中がわからなくなるってこともあるんだ」
「そうでしょ、だから俺は読みたくないんだ。本でわかるなら誰でもわかっちゃうことになるけど、そんなことあるわけないもん」
「そう、そう。しかし、世の中はどうやっても分からないことばかりなんだが、人間はどうしても食べるだけでは生きられないよね。そこが他の動物と違うんじゃないだろうか。人を好きになることだって、動物ならライバルと争って負けた方は諦め、勝った方が交尾して子どもが生まれれば、それで完結するけれど、人間の場合はそうはいかないよね」
「うーん、同じだって気もするけど」
「人は好きになること自体がまず大きな問題でしょう。だからいろいろと悩む。悩むこと自体が生きることと同じだって思えるぐらいだ。それは、人間には精神というものがあるからなんだ」
「精神って?」
「心、だね」
「心は動物にもあると思うけど」
「あるんだけれど、人間の心とは違う。彼らの心は生命を守ったり、種族を維持するために働く、もっとも簡素な感覚だ」
「簡単なものでも、心は心だよね」
「そうなんだが、人間は脳が他の動物より発達してしまったので、少し面倒なことになってしまった。好きになることが、必ずしもストレートに種族保存の本能につながっていない。それで考えたり迷ったり悩んだりするんだね。文学の大半が恋愛に関するものであるのは、それだけ人を好きになることが難しいからだろう。そこで自分の体験だけでは解決出来ないから、文学作品を読んで、主人公の喜びや悲しみを共有したり、書いた人と共に考えて体験量を多くするわけだ。もちろん、ただ面白いだけの本や、つまらない本もたくさんあるけれど」
「なんだか、ますます話が難しくなるな。頭が痛くなる」
「ゴメン、きっと私の説明がまずいせいだろう。本当のこというと私にもよくわからないんだよ……」
「結局、世の中わからないことばかりってことかしら」
「そうだね。わからないことを、わかろうとして悩むのが人間の宿命かもしれないな」
「俺はあんまり悩みたくない」
「でも、英樹さんだって悩みがあるじゃない」
「そうなんだよな。だけどさっき遠くの海を見ていたら、なんかバカバカしくなってきた。心配してもどうにもならないんだから」
「気持ちが楽になったのかな」
「頂上効果かもしれないな、英樹」
「うん、毎日あんなマッチ箱みたいな小さな家んなかで、ああでもない、こうでもないってさ。だから母ちゃんもここからの景色見せたら気持ちが変わるかもしれない」
「少し具合が良くなったら、ぜひ連れてきたいな」
「まあ、無理だろうけど」
「英樹君のお母さん体が悪いの?」
「はい、なんだか調子悪い。このごろは、あんまり食べないし、口もきかない」
「それは心配だね」
「オヤジが悪いんだ」
「えっ?」
「オヤジの浮気が原因だと思う」
「へー、そうだったのか。浮気なんかしたらぶん殴ってやればいいのに」
「安田、母ちゃんはお前とは違うよ」
「何が違うのよ」
「母ちゃんは自分が悪いせいだって思う女なんだ」
「うん、そりゃ私とは大違いだ。でもさ、はっきりさせなきゃ解決しないじゃない。お父さんはどう考えてるの?」
「何考えてるのか全然わかんない。俺もオヤジとは口きかないし」
「なんか、グズグズした男なんじゃない、悪いけど。許せないよ。ねえ、静代ちゃん?」
「うーん、事情を詳しく知らないから、何とも私にはいえないけど、英樹さんのお父さんが、はっきりしなくちゃいけないと思うな」
「そうよ、こういう場合は大抵男が悪いに決まってるんだから」
「お母さんの体が心配だね。病気になってなければいいんだが」
「時々薬飲んでるから、病院には行ってるはずだけど」
「こういう時って子供にできることは、あまり無いからなあ。英樹君もつらいね」
「ジュゴンには何か出来ないの?」
「南ちゃん、残念だけど私には何もできないだろうね」
「何だか悲しいね」
「うん。ほんとに人間は無力なんだね、こういうことに関しては」


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