英樹はついに円山の頂上に立った。自力で登り切ったのだ。彼はじっと北東の方角を見つめている。札幌駅の手前にある自分の家のあたりを越えて、遥か遠く石狩湾の増毛(ましけ)から留萌(るもい)の方向に視線を漂わせ、身動ぎひとつしない。俺たちは、しばらく声を掛けずにそっとしておいた。高く上がった太陽を一杯に浴びて、市内全域が鮮やかに見渡せた。豊平川がゆったりと蛇行し、ところどころの水面が光を乱反射して、夜空の星のようにキラキラと輝いている。東北東の奥には大雪山系が見えるはずだが、今は白く霞んで地平線に溶け込んでいる。
円山山頂からの眺望は、藻岩山山頂からに比べるとさすがに見劣りする。高さが半分以下なのだから仕方がない。しかし、英樹は初めての体験だから、感激は大きいはずだ。ジュゴンは手稲山の方向を眺めている。静代と南は学校が見えた、自分の家が見えないなどといって騒がしい。俺は英樹のそばに立って、彼の視線を辿った。やがて英樹は石狩湾の先を見つめたまま独り言のように話し始めた。
「思ってたより札幌の街は狭いんだな。ここから見ると、どの家も隣どうしみたいなもんだ。それに比べて海はやっぱり大きいなあ。あの先までずっと続いてるんだよな。俺、母ちゃんにもこの景色を見せてやりたいって思ってたんだ」
ここまでいって英樹は俺の方に顔を向けた。
「浩、ほんとにありがとう。お前がいなかったら、俺はこんな景色を一生見られなかったかもしれない」
「次は藻岩山に登ろうな。もっとすごい景色だぞ」
「この倍以上の高さだろ、俺には無理だよ」
「そんなことないさ。難しいのは1カ所だけだ。それも俺とジュゴンがいれば何の問題もないさ」
「登れたら嬉しいな」
「おっ、山に来てだいぶ素直になったな、お前」
「からかうなよ。だけど山っていいな。腹の中のモヤモヤが消えるような気がする」
「よかったな」
「でも、明日からその反動がくるかもしれないけど」
「そんなこと考えたら頭ハゲるぞ。明日は明日だよ。今日は楽しくやろう」
「うん、松葉杖ついたハゲじゃカッコ悪すぎだもんな」
「そう、そうだよ、エキ」
いつの間にかほかの3人が俺たちのそばにきていた。
「英樹さん頑張ったね、エラカッタ」
「私の助けがなくて残念だったね。気分はどう」
「最高って顔に書いてある。最近こんな明るい英樹さん見たことないよ」
「私がオンブしたら、もっといい顔になったのになあ」
「浩、女は山に登ってもおしゃべりで、うるさいんだな」
「あら、失礼ね。山で女の悪口いうとタタリがあるんだよ」
「なんでだよ」
「山の神ってあんた知らないの?」
「えっ? ああそうか。お前はよくそんなクダランことが次々に口から出るな」
「クダランくないよ。山だからノボルンだぞ」
「おい、ジュゴンも浩も笑ってないで、こいつの口をふさいでくれよ」
「ねえ、ジュゴン。面白いでしょ、この2人。エンタツ・アチャコみたい」
「ハハハ、いや最初から感じていたが、エキと南ちゃんはとても気が合ってる」
「そうでしょ」
「よせよ、悪い冗談は」
「それは私のセリフよ、思い上がるな」
「まあ、まあ。いいたいことを、いい合えるのは最高の仲間だってことだよ」
「そうよね。ところで、もう1時だしお弁当にしましょうよ」
弁当は静代と俺の担当だ。岩場だが何とか5人が腰掛けられる石を見つけて、石狩湾に向かって座った。
「あのね、私は飛び入りだからメシはいらない。私を気にしないで食べてちょうだい」
「あら、ジュゴン。大丈夫ですよ。今日は大食いの男が2人もいるので多めにもってきたから、たっぷり5人分あります」
「僕も多めに用意してもらった」
「へー、浩さんも。私たちって気持ちがピッタリ合うんだね」
「ちょっと、ここまできてイチャイチャすんのはやめてよ、静代ちゃん」
「だってほんとなんだもの」
「しょうがないわねえ。もうどうでもいいから早くエサをください、甘ったれ静代君」
「駄目、南ちゃんは私をイジメたから最後。最初は今日の主役、東谷英樹くーん」
他愛のないことをいい合いながら静代と南はテキパキと昼食の準備を始めた。おにぎり、稲荷寿司、海苔巻をまず均等に配り、卵焼きと簡単な煮物、昆布巻きなどが分配されていく。
「いやー、2人とも手際がいいね。きっといいお嫁さんになれるなあ。お母さんの教育がいいんだろうね」
2人をじっと見ていたジュゴンが感心していった。
「私は浩さんのお嫁さんになれるのかなあ」
「あんた、まだそんなこといってる。10年以上先のことなんかわかんないでしょ。それに浩君より素敵な男は世の中に一杯いるんだよ、ねえ、浩君?」
「そりゃ一杯どころか10杯もいるさ」
「でも、私は浩さんがいいんだもん」
「こりゃ駄目だ。静代ちゃんが狂っちゃいましたあ」
「人を好きになるというのは、他人からは狂っていると思われるぐらいでなきゃね」
「へー、それはジュゴンの体験からの意見なの?」
「まあね。南ちゃん、人を好きになるというのは、何というか理屈では説明できない不思議なものが体の中に生まれて、それが勝手に育って行く。そして、自分ではコントロールできなくなるんだね。それが他人からは狂ったように見えたり、馬鹿馬鹿しく感じられたりする。でも、純粋に人が思い合うと、2人の心の中には、雪の結晶のような美しい情念が生まれる」
「難しい話だけと、なんとなくロマンチックだね」
「うん、心の中の雪の結晶なんて、素敵」
「でも、雪はすぐ溶けちゃうぞ」
「英樹君、あんたは夢がないねえ」
「だって夢と実際は全然違うじゃないか」
「いいから、少しの間だけ夢を見させてちょうだいよ」
「夢より何たって食い物だ。山で食べるといつもの10倍うまいな。あり難くて涙が出る。キュウリの海苔巻がこんなにうまいなんて。お稲荷さんも油揚がお菓子みたいだ。ほんとにウマイ」
「浩さんがそんなに褒めてくれて、お母さんが聞いたら喜ぶだろうなあ。ところで、浩さんがもってきた昆布巻きはお母さんが作ったの?」
「そうだよ。うちの母は煮物が得意なんだ」
「うん、煮物もウマイな。浩んちはいつもこんなご馳走食べてるの?」
「そんなわけないだろ。母はいつも経済、経済、贅沢は敵だっていってるから、普通の日はオカズは1品きりさ」


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