
4人が遊んだ時より20年ほど後の円山付近。手前が円山で奥が藻岩山。野球場とその先の動物園、手前の運動場はありましたが、中央から奥に見える人家は当時はまだほとんどなく、このあたり一帯は深い森でした。山が削られ森の木々が伐採されて住宅地になった姿は無惨です
英樹の家に行く日はなかなか決まらなかった。お母さんの具合がとても悪いので、ちょうどいい日がなかなか見つからないのだ。英樹の気分も落ち込む一方だった。そこで、俺は青山静代と相談して、先に4人の遠足を実行することにした。
5月29日日曜日、午前9時に14丁目の市電乗り場で待合わせをした。静代と俺は弁当の係り、安田はおやつの担当だ。英樹に何もさせないと気にするので、彼には何か遊び道具があったらもってくるようにいっておいた。みんなで遊べるものなんてなかったから、彼はポケットに使い古したハーモニカを入れてやってきた。山で得意な曲を吹いてくれるという。3人は大喜びのフリをした。
市電の終点から円山公園に入って、左から右に湾曲して森の奥に通じる道を歩く。左手には天まで伸びようかという杉の大木がびっしりと連なり、右手には野球場と毎年俺たちの運動会をするグランド、そして芝生に覆われた公園がある。5月末の木漏れ日はまだ柔らかく、若緑色の空気はさわやかだが、緩やかな坂道なので数分も歩くと軽く汗ばんでくる。英樹は疲れないかと心配になるほどの速足で歩いている。松葉杖がなければ足が悪いのを忘れてしまいそうな勢いだ。常に俺たちより1歩先を行こうとする。
やがて杉の林が切れて、左の窪地に通じる細い道がある。まばらに雑草が生えた窪地の真ん中には細い川が流れ、1本丸太の橋が無造作に掛けられていた。橋の向こう側は円山の裾で急峻な斜面が迫っている。俺は円山に登る前に、この川で遊びたくなった。静代が額の汗をぬぐいながら賛成した。すかさず安田が目を吊り上げていった。
「浩君、またここでタニシでも獲ろうってんじゃないでしょうね」
「タニシはもう獲らないことにしたんだ。川の水うまそうだな、英樹」
「うん。一休みしようぜ」
川といっても、幅は広いところでも2メートル、深さは10センチほどの、せせらぎだ。タニシどころか小魚1匹いそうにない。水は澄んでいる。飲みたいが大丈夫かどうか判断がつかない。
「俺が先に飲んでみるよ。うん、うまいうまい。この水はきれいで安全だ。きれいで危ないのは月夜と女だけさ」
「あら、英樹君。あんた案外しゃれたこというのね。じゃ、次はもっとも危ない私が飲もうじゃないか」
「南ちゃんたら芝居みたい」
「自分がきれいだって宣言してるぜ」
「うるさいわね。ワタシャきれいなんだよ、身も心も。わあ、ほんとおいしい、静代ちゃんも早く飲みなさいよ」
「うん。ほんとに冷たくておいしい。浩さんも飲んだら」
「うん、ああ、ほんとにうまいなあ」
名もない小さな流れではあったが、たぶん藻岩山の裏手の深い谷間から流れて来るのだろう。澄み切った水は、ところどころの岩や大きな石に当たっては方向を変え、遠慮がちに流れて行く。川底の小石が水越しに光を受けて、形を歪めながら輝いている。途中で落ちた枯れ枝は、大きいものは両岸に寄せられ、細く短いものは浮きつ沈みつしながら、まるで小魚のようにゆっくりと下っていく。
おやつ係の安田が緑色のバッグの口を開けた。
「さあ、みんな、エネルギーの補給をしようぜ。南センセの前に1列に並んで。そう、そう、女子が先よ。戦後はレイディー・ファーストですからね」
「南ちゃんほんとの英語みたい」
「近所の大学生に教えてもらったの。レデー・フアストじゃダメだって」
「大学生じゃなくて隣のパンパン姉ちゃんじゃねえの?」
「あんた、そんな言葉使っちゃ緑の葉っぱが枯れるちゃうよ」
「そういえば、パンパンってこのごろ見なくなったな」
「んもー、浩君までそんな言葉使わないでよ、私大嫌いなんだから」
「私も、だいきらい」
「さあ、くだらないこと並べてないでキャラメルでも舐めなさいよ」
「この川には魚なんかいないのかな、英樹?」
「どうかな。フナの小さいヤツぐらいはいるんじゃないかな。ちょっと調べて見ようか」
「うん。俺、靴脱いで入ってみる」
「浩君ってほんと水遊びが好きだね」
「ほんとだね。でも南ちゃん、私たちも靴脱いで入ってみようか」
「静代ちゃんたら、浩君に似てきたんじゃない?」
「そんなことないけど、気持ち良さそうじゃない」
「へへ、実はね、私もそうしたかったんだ」
英樹以外の3人は裸足になって、バシャバシャと川に入った。水はかなり冷たいので静代も安田も、最初はヒャーとかキャーと悲鳴のような声を上げたが、なにしろ踝ぐらいまでの深さなので、すぐに慣れてしまった。坂道を歩いて熱を帯びた足が、川の中で生き返ったように心地よく感じられ、川底の細かい砂が足裏にしっとりと馴染む。あまり人が来ない所を流れてくるので、危険なものはなにもない。
水面をじっと見つめていると、糸のように細い魚が、いくつかの集団を組んで川を溯っていくのが見えた。オタマジャクシより小さく、薄茶色の半透明な体にけし粒ほどの目がついて、姿は紛れもない魚だ。
「おい、英樹。いるよ魚が。虫みたいに小さいけど、確かに魚だ」
「そうか。今すぐ行くから、そこでじっとしてろよ」
「どれどれ、ほんとに魚がいるの、こんな浅い川に?」
「あっ、静かに歩いて。みんな逃げちゃうから」
俺の制止を無視して、静代と南が水を蹴散らしながら近づいてくる。魚は一斉に向きを変えて見えなくなってしまった。
「ほんとに魚がいたの? ゴミと間違えたんじゃない?」
女たちは可愛い気のないことを無造作にいう。英樹は左だけ裸足になって流れに入り、俺たち3人から少し離れた所で、水底をじっと見つめている。その目はまるで獲物を狙う鷹のように鋭い。話しかけるのをためらっていると、
「うん、確かにいる。魚だ。何かの稚魚だな」
「稚魚? イワナかヤマベかな?」
「何だろうな。フナかもしれない。俺は魚のこと詳しくないんだ。特に川魚はダメだ。少しもって帰って高橋先生にでも見てもらったらいいんじゃないか」
「そうだな。でも、どうやって獲る?」
「ハンカチを網にしてとるか」
「でも、すぐ逃げちゃうから難しいな」
こんな話をしていると、上流の方から1人の男がやってきた。男は麦藁帽子を被り、左手に杖代わりの竹棒をもち、口にはタバコをくわえている。俺たちから10メートルぐらいのところで立ちどまり、じっとこっちを見つめたまま動かない。

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