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●幼年時代

 第2次世界大戦敗戦後の、荒廃と貧しさが全国各地にまだ色濃く残る1955(昭和30)年。北海道札幌市の中心街にある大通小学校(札幌市立)に通学する、6年生の少年の1年間を描く半自伝的小説。大きく社会が変化して行く中で、当時の少年はどんな生活をしていたのか。今はすっかり大都会となった札幌の自然描写にも注目。

幼年時代 第16回 タニシをとる、そして静代と南がやってくる

道庁旧本庁舎手前が浩がタニシをとった池

 俺はとりあえず、目の前の池に足を突っ込んだ。ここは浅いから膝までズボンを捲り上げれば大丈夫だ。底はヌルヌルしていてちょっと気持ち悪い。砂が舞い上がって水底はまったく見えない。手探りで探すしかない。
「浩、ズボン脱いだ方がいいんじゃないか。濡れちゃうぞ」
 英樹が面倒くさそうにいう。
「ここで、ズボン脱いだら恥ずかしいよ」
「何いってるんだ。誰もいないし、来ても子供のことなんか気にするヤツはいないよ」
「そうかな。じゃちょっと脱ぐか」
 俺はいったん池から出て、泥だらけの足を注意深くズボンから引き抜いた。しかしその時、池の底まで手を突っ込めば、肩のところまで濡れてしまうから、上着も脱がないと駄目だと気づいた。何しろ母は衣類や靴を汚したり濡らしたりするとうるさい。いつもの優しい顔が、目を吊り上げて別人のようになる。なんで、あんなに怒るんだろうと不思議になるほどだ。
 俺はシャツとパンツだけの情けない姿に変身して、もう1度池に入った。英樹が俺を見て腹を抱えて笑っている。自分でもおかしな姿だろうと思うが仕方がない。
「浩、いっそ全部脱いだほうがいいんじゃないか」
「そんなことできるかよ、バカ」
「何ごとも中途半端はダメなんじゃないか?」
「くだらんことばり叫んでないで手伝えよ」
「いやだね。俺はタニシなんかいらないぜ」
 池の淵に沿って手と足で泥を探りながらゆっくり進んだ。ところどころに石があって、その周りにいることが多い。思わず深いところに足を踏み入れると股間が濡れて冷たい。しかし、1度濡れてしまうと、もう気にならない。パンツの中まで水が入ってくる。もう腰のあたりまで水に浸かってしまったが、どうということはない。このまま池の真ん中に向かって泳ぎたいぐらいだ。
「おーい、浩。お前タニシとってるのか、水浴びしてるのか?」
「どっちでもいいじゃないか。それに、ほらもう2つとったぞ。マルとヒメがひとつずつだ」
「じゃ、もう上がれよ。早く日のあるうちに乾かさないと風邪引くぞ」
「ああ、わかった。もう少しとったら上がるよ」

池からとったのはたぶん、こんなオオタニシだった

 池に入って数分もすると、俺は自分と池が一体になっていくような不思議な気持ちになってきた。5月中ごろの水は入りたては少し冷たいが、すぐに慣れてしまう。それに池はいちばん深いところでも1メートル半ほどしかないので、天気が良ければ午後にはだいぶ温まる。腰を屈めて肩の付け根まで腕を水に入れる。底はヌルヌルしていて足先に体重をかけると、どんどん沈んでいく。近くの石にもう一方の足を置いて、そっと埋まった足を抜く。こんなことを繰り返しているうちに、俺はこのままずっと池の中にいてもいいと感じ始めてきた。誰にも侵される心配のない安全な場所にいるように、全身の緊張がほぐれて心地いい。赤ん坊は母親のお腹の中では水に浮かんだ状態で過ごす、と高橋先生がいつか教えてくれた。俺は水に濡れながら、母の胎内にいる時って、こんな感じだろうか、などとぼんやり思っていた。
 その時、英樹が池の近くまでやってきて、松葉杖で棒杭を打ちながら、声を忍ばせて、
「おい、浩、おい。早く上がってこい、青山がきたぞ、安田も一緒だ」
 俺はどうしていいかすぐにはわからなかったので、水の中にしゃがみ込んだままでいた。
「おい、お前何やってんだ。早く上がってこいって」
「だってもう間に合わないよ」
「何でもいいから上がってこいってのに。いう通りにしないと知らないぞ、おい、浩」
 英樹の声はどんどん大きくなったが、俺はどうにでもなれという気持ちになった。でも、なんで安田まで一緒なんだろう。

「浩くーん。なに、その格好。こっちにおいでよ」
 安田が英樹のそばから叫んだ。
「あいつパンツとシャツだけで、ずぶ濡れだから、お前たちがいちゃ上がってこれないよ。しばらく向こうに行っててくれ」
「別に気にすることないじゃない。私いつもお父さんの裸見てるから、丸裸の男だって気にしないよ」
 と安田がいう。本当をいうと俺も裸は平気だ。恥ずかしいなんて思わない。
「英樹さんは考え過ぎよ。私たち気にしないから、浩さんもう上がっておいでよ」
 と静代もいう。
「うん。今そっちに行くよ」
 といって立ち上がると、パンツがすっかり濡れて肌に張り付いている。股間が変な形に見えて少し気になった。そこで俺はシャツを脱いで、手にぶら下げて前を隠すようにして池から上がることにした。英樹が頭をかいてニヤニヤしながらいった。
「しょうがねえな、みっともないカッコだぜ、ほんとに」
「まあ、ほんとにずぶ濡れ。浩さん寒くない?」
「大丈夫。でも、どうしたの、静代ちゃんは今日別な用事があったんじゃないの?」
「へへ。あれはウソ。後から池に行こうと最初から思ってたの。そしたら、南ちゃんも行きたいっていうから、一緒にきたの。お土産にお菓子もってきた」
「うーん。今日は英樹とずっと一緒にいて、いい話をしようと思ってたのになあ」
「あら、意地悪ね。それより何とかしなくちゃ風邪引いちゃうよ。私、拭いたげる」
「いいよ、このままですぐに乾くから」
「いいから、いいから。私、ちゃんと手ぬぐいもってきたんだ」
「ほーっ、準備がいいなあ。まるで奥さんみたいだ」
「英樹さんは黙ってて」
「浩君、静代ちゃんと仲良しでいいね。私なんか1人で寂しいなあ、英樹さん、あんたは誰か好きな女の子いないの?」
「いないよ。俺は女なんかに関心がない」
「ほんと? やせ我慢じゃないの? 女の子に関心がない男の子なんていないんじゃない?」
「そんなことないさ。男には男どうしの方が楽しいってやついっぱいいるよ。俺はよく知ってるんだ、女は難しいって」
「難しいって、どういうこと?」
「男とは違うってことさ」
「そりゃ当たり前じゃないの。難しいってことと関係ないでしょ」
「いろいろあるからさ、簡単には説明できないよ。でも、俺は浩にもいつもいってるんだ。女は難しいから気をつけろって」
「何だか変な話だなあ。英樹さんはちょっと難しく考え過ぎるんじゃないの、なんでも」
「いやー、俺はいろいろ知ってるんだ。俺、頭はよくないけど、経験豊富だからなあ」
「へー、そうなの。どんな経験してるの?」
「安田、お前はうるさいよ。そんなにポンポンいわれたって、俺うまく説明できないぜ」

 英樹と安田がいい合ってる間に、静代が俺の体を拭いてくれた。照れくさいが、いい気持ちがした。
「浩さん、このパンツ脱いじゃいなさいよ。10分も干しておけば乾くよ。これじゃ気持ち悪いでしょ。恥ずかしかったら、その間シャツを腰に回しておけばいいじゃない」
「うん、そうだね。じゃ、そうしようかな。後ろ向いてて」
「心配しなくても見ないから大丈夫」
「別に見られたっていいけど、行儀が悪いだろ」
「行儀なんてどうでもいいわよ、こんなときは」
「お前たち、バカじゃないか。俺がやってやるから、女2人は少しあっちへ行ってろよ」
 英樹が憤慨した口調でいう。すると安田が間髪入れずに、
「あれっ、英樹さん、ヤキモチ焼いてんじゃないの?」
 という。英樹は松葉杖を振り上げて、
「バカいうんじゃないよ。怒るぞ俺は。いいから、ちょっとの間、向こうに行ってろっていうのに」
 2人は仕方がないといった感じで、道庁の玄関の方に行った。
「ああ、疲れるぜ、ほんとに。浩、あいつらどうも普通じゃないぞ」
「なんで? 親切なだけじゃないか」
「お前はバカだねえ、ほんとに。今日は俺がいたからいいようなものの、これからはもっと気をつけろ。こんなところを誰かに見つかったら大変な騒ぎになるぞ。たとえ、お前と青山がただの仲良しで、変な関係じゃなくても、悪くいうやつが必ずいるんだ。さあ、早く俺を壁にしてパンツ脱げ。そしてシャツを腰に巻け。パンツはその草の上にふわっと置いておけばすぐ乾くさ。
 お前は成績がよくて、先生たちに可愛がられてるから、それを面白くないと思うやつもいっぱいいるんだぞ。ちょっとスキをみせると、それを大げさに言いふらすやつらがいるんだから気をつけなくちゃいけない。お前は、他人が自分のことをどう思ってるかまったくわからんやつだから、俺はすごく心配になる」
「ふーん。そうかな」
「そうだよ。まあ、俺のいうことちゃんと聞いてしっかりしろよ」
 なるほど、英樹はそんなことを心配していたのか。俺は考え過ぎじゃないかと思ったが、彼が親切でいってくれていることは間違いないので、黙って聞いておくことにした。パンツは予想に反してすぐには乾かなかったが、あまり時間が経ってもいけないので生乾きのままで我慢することにした。

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